2011年3月22日火曜日

地震の日の私のこと、バッハのこと。

私は、あの大地震の日、パイプオルガンのレッスンで
東久留米の聖グレゴリオの家というカトリックの教会にいました。
オルガンの先生、ジャン=フィリップ・メルカート先生はベルギーの方。
ベルギーには全く地震がないそうですから、どんなにか驚かれたことと思います。

その瞬間、教会の建物のガラスというガラスが突然ガタガタガタ!と
割れる勢いで揺れ出しました。すぐに外へ飛び出しました。
地面はぐるぐると回るように揺れ、教会脇の大きな大きな杉のような木は
信じられないほどしなって揺れていました。
鳥は全くいなくて、でも空は青く…不気味に、ずっと地面がぐるぐると揺れていました。

グレゴリオの家にいた方々、15名ぐらいが、じっと黙っていました。
次の余震が来るまでのほんの落ち着いた時、どこからともなくすぐに地域放送が入りました。
「今の地震は震度5弱でした。」そう、何度か連続したアナウンスがありました。

関東には地震が多いです。
しかし、この地震は私が体験した地震の中で一番おそろしく大きな揺れでした。

皆大丈夫か?
すぐ、親しい者に電話しました。電話が通じたのは2人まで。

どこが震源なのか?
その後の余震を2回経験するまで、何だか頭がまとまっていなかったのを覚えていますが
しばらくしていきなり、30件ぐらいのメールが一気にきました。

皆が心配して、メールを送ってくれていたのです。でも、すぐには携帯が対応できなかったのでしょう。
しかし、そのメール受信を最後にメールも電話も全く繋がらなくなってしまいました。

何が何だかわからないままでしたが、地震はおさまりましたので
私は、メルカート先生に、レッスンを続行して頂きました。
バッハのコラール≪主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる≫BWV.639を弾いていると
また、大きく左右にオルガンが揺れました。イスごと身体が左右に揺れたように感じました。
でも、先ほどの2回の余震に比べたら全く小さな揺れでした。
地震直後のレッスンは緊迫した心持ちではありました。
でも、音楽を演奏するというのは一種非日常の世界に私たちを誘います。
ましてやパイプオルガンなどという神聖で宇宙的な楽器を前にしているのですから尚のことです。
私は、だんだん、気持ちが癒されていき、落ち着きを取り戻したのをはっきりと覚えています。

そして、レッスンを終えて、私は小走りに駅へと向かいました。
先生にはまだ次のレッスン生がおられました。
小高い丘から坂を降り、白い雲の浮かぶ空を見ながら、その下にある線路が見えてきました。
その時です、私はびっくりしました!西武線の線路の上を女子高校生たちが歩いていたからです。

私は、その光景を見てはじめて、この地震がとてつもないことになってるんだと認知しました。
仕事を一件断り、その日、國學院大学へ縄文の名誉教授/小林達雄先生の公開講義とセレモニーに
出席することになっていましたので、走り出しました。しかし、電車は復旧せず…。
どこへも動けなくなりました。

私を心配して、車の迎えが来てくれるとのことでしたが、全く交通渋滞で全く動きません。
車とやっとのことで合流して家へ帰宅したのは、それから8時間後のことでした。

車に乗るまで、私はどこで何が起きたのか、何もはっきりわかっていませんでした。
ただ、寒さに震えながら、ずっとバッハのコラールを聞いていました。
今、練習している曲や、今度弾く曲をずっと繰り返し聞いていました。
あの時間は、静かな時間でした。

電話がつながらないことが、何か大きなことが起こっているであろう予感をさせました。
メールも入らず、かなりの時間差でちょこっと届きます。
それですれ違いや何やかやで、車と合流できるまでに4時間ほどかかりました。
でも、大方の方々はその地に足止めを余儀なくされていらっしゃいました。

車にピックされ、テレビを見て…
私はこの地震がものすごいものであることを、知りました…。

あの日から10日。
3/21はバッハの誕生日でした。

今日、私はピアノでバッハを弾きました。
バッハを弾いていると、
そこに神様が降りて来て、何か聖なる力を与えて下さるような気がしました。

避難所にも、心のやすらぐ音楽が届くといいなと心から思います。

ライフラインが確保されたら、
きっと何か楽器や絵筆や塗り絵等があったら、どんなにか心にいいでしょう。
今は、食品と衛生用品等以外の物理的物資が優先されていますが、きっと近い未来に
皆さんにそういった心を潤すものたちが届き、元気になられますように。



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